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    カテゴリ: 歴史



    (出典 images-na.ssl-images-amazon.com)



    1 興味深いスレ発見!ここに継続スレ立ててみた :2017/09/03(日) 15:18:46.63 ID:F2qZWWGb.net

    572 :日本@名無史さん:2011/07/30(土) 06:22:36.56
    薩長新政府がやたら王制復古といいながら日本の奈良時代を手本にしたが
    正倉院にいっても8世紀(奈良時代の)史書なんてカケラも残っていない。
    どーゆーことかと言えば古代史なんてわからないはずなのに天皇家は古代満州朝鮮から来たことになってる。
    そうではなくて要は幕末(明治天皇の祖父の時代)に満州、朝鮮のタチ悪くガラの悪い貧乏人の奴らが
    長州に上陸してその後徳川幕府の領地を戊辰戦争などで略奪しのっとりして成立したのが明治新政府ということ。
    だから自虐史観になるし「愛国」といいながら日本を侵略しボロボロにする売国政治家(安倍みたいな朝鮮人)がのさばるし
    「尊王」といいながら孝明帝を暗*た伊藤が総理になるわ「言ってることとやってることが反対」なのが半島満州系在日ウヨクの起源なのです。

    <前スレ>明治天皇(の祖父の時代)家は幕末満州から来た
    http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/min/1311975279/

    <関連スレ>
    ポンでも地家寅吉大室寅之祐明治天皇すりかえ説20
    http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1323227970/
    海賊岸要蔵の孫大室寅之祐が明治天皇になった21
    http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1356066111/
    安倍晋三って朝鮮王室の李晋三世で、日本と朝鮮統一目指してるってマジ?
    http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1489989259/


    【明治天皇家は幕末 満州から来た】の続きを読む



    (出典 www.sankeibiz.jp)



    1 名無しさん@おーぷん :2018/09/01(土)08:43:29 ID:kcp

    語尾にアルとかつけない。
    それは協和語と呼ばれる、旧満州帝国などの日本の植民地で使われていた簡易日本語の話し方。


    【中華人民共和国に対して世間が誤解してること】の続きを読む



    (出典 www.jaccotours.com)



    1 名無しさん@おーぷん :2018/08/30(木)22:05:19 ID:9FW

    悠仁様に何かあったら断絶じゃんこれ

    (出典 i.imgur.com)


    【日本の皇族一覧を見ていてヤバいことに気づいてしまった】の続きを読む



    (出典 image.jimcdn.com)



    1 日本@名無史さん :2011/12/20(火) 18:55:22.86 .net

    考えよう


    【日本史における武士道の発展と役割】の続きを読む



    (出典 shareblog.info)



    1 Toy Soldiers ★ :2018/08/30(木) 14:56:39.00

    2018年8月29日、韓国・朝鮮日報によると、米アップルが作成した地図から「竹島」の表記が削除されたことが分かった。

    韓国では最近、iPhoneの一部モデルに搭載された地図に、韓国名の「独島」と共に「竹島官有無番地」との名が併記されているとの情報がメディアやインターネット上で取り上げられ、「反アップル感情が拡散していた」という。
    記事は「官有無番地とは日本語で、政府が所有する番地のない土地という意味」と説明している。しかし現在は「独島」の単独表記になっているという。

    また記事は「アップルが独島問題で物議を醸すのは今回が初めてではない」と伝えている。
    アップル地図はベータサービス期間、全ての言語で「竹島」と単独表記していたという。
    これに対し韓国のネットユーザーから抗議が続出したため、正式バージョンでは「独島」表記に変更されたという。

    インターネットを通して韓国の対外広報を行うNGO団体「VANK」の関係者は「デジタル社会になり、国境や主要都市の名称をネットで学ぶ人が増えている」とし、「モニタリングを強化し、独島の名前を守るため努力する」と述べたという。

    この記事に、韓国のネットユーザーからは「間違いが正されてよかった」と安堵する声が上がる一方で、
    「政府が対応すべき問題なのに」「政府はなぜ独島問題に無関心なの?」「政府よりネットユーザーの方が頼もしい」と韓国政府に対する不満の声も寄せられている。

    そのほか、「独島はもちろん、対馬も韓国の土地。文政府は早く取り戻して」との声や、「これでもiPhoneを使う人が減らないのはなぜ?」と疑問を示すユーザーも見られた。

    http://news.livedoor.com/lite/article_detail/15229241/

    ★1: 2018/08/30(木) 01:11:10.73
    ※前スレ
    【不買】米アップル、iPhone地図から「竹島」削除し「独島」単独表記 ★2
    http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1535591621/


    【米アップル、iPhone地図から「竹島」削除し・・・】の続きを読む



    (出典 www.howtravel.com)



    1 名無しさん@おーぷん :2018/08/28(火)02:31:09 ID:uoU

    9世紀まではガチ


    【イスラム教がキリスト教に負けた理由ってなんや?】の続きを読む



    (出典 daihonnei.wpblog.jp)



    1 ごまカンパチ ★ :2018/08/20(月) 04:54:53.61

    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180818-00546855-shincho-int
    ■大日本帝国を懐かしむ人たち

    毎年8月になると戦争関連の書籍、報道、番組、記事が増える。基本的に全面的に肯定する人はいないものの、
    先の戦争の評価は人それぞれである。「日本のやったことはすべて悪い」という立場もあれば、「仕方が無かった面もある」
    「良かった点もある」という立場もある。前者は後者を「歴史修正主義」などと批判し、後者は前者を「自虐史観」と批判する。
    これもまた毎年のように繰り返される光景だ。

    このように戦争についての論争が自由に行われること自体、いくつかの近隣の国では見られないことかもしれない。
    概してメジャーなメディアでは「日本は悪いことをした」というトーンの論調が主流だが、その視点からは抜け落ちてしまう人たちも存在する。
    大日本帝国が支配していた時代を懐かしむ人たちだ。
    「日本は良いこともやった」と当の日本人が主張した場合、批判を浴びがちだが、実際に大日本帝国の支配を受けながらも
    今でも好意的に語る現地の人たちの存在は、ある種の論者には不都合な存在なのかもしれない。

    たとえばパラオ諸島を含む南洋の島々には、今でも大日本帝国の統治下を知る人たちが存在している。
    彼らはその前にはドイツの支配下にあり、戦後はアメリカの強い影響下にあった。その経験を踏まえてもなお、
    大日本帝国時代を懐かしむ声は決して少なくない。
    たとえば、現地の老婦人、カズエさんはこう語る(名前は日本風だが、パラオ人。当時はこういう人が多かった)。

    「日本時代は楽しい時代だったのよ。私は本当に感謝してますよ。私が生まれたのは日本時代の真っ盛りでしたからねえ。
    昔は楽な生活だったのよ。食べ物にも困らない*。日本の時代は本当にいい時代だったのよ」

    なぜなのか。
    数多くの現地の人たちの証言を集めた『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)に収められた肉声を中心に紹介しながら、
    同書をもとにその理由を見ていこう(上の老婦人のコメントも含め、以下、引用はすべて同書より)。

    ■ドイツの恐怖支配

    パラオ諸島を含むミクロネシアに一早く目を付けたのはスペインだった。彼らの目的はキリスト教の布教。
    スペイン政府は現地に学校を建てて、西洋の価値観を広めようとした。
    そこに狙いをつけたのがドイツだ。スペインとの奪い合いの末、いろいろな経緯を経たうえで、武力と財力によってドイツは
    19世紀末にはミクロネシア全域を領土とする。
    このドイツ時代の支配は、簡単にいえば強国が植民地に対して行なう悪い支配の典型のようなものだった。
    最初こそ教育にも力を入れたものの現地で鉱石が発見されるや、現地人に労働を強い、従わない者には鞭打ちなど厳しい刑を与えた。
    親から当時のことを聞いているパラオ人のフジオさんは、こう語っている。

    「ポンペイ島では、強制労働への反発からドイツと戦争のような事態になりました。この件ではドイツ人の知事も*れました。
    パラオの人も反乱を起こしました。あんまりひどい扱いを受けましたからね。
    ドイツ人はパラオの人を処刑する時はみんなが見ている前でやるんです。
    反乱を起こしたうちの3人のパラオ人が撃たれた。それをパラオ公園にある大きな木に吊るしたんです。日本人はそんなことしませんでした」

    第1次大戦後、ミクロネシアは日本の委任統治領となる。これは植民地ほどの権限は持たず、物質面や精神面で現地住民が
    幸福な生活を送れるようにし、いずれ独立国家としてやっていけるように支援する政策にすべきだ、ということが戦勝国の間で決められた。
    こうした決定に日本は不満もあったものの、結果的には従っている。
    こうして大日本帝国はミクロネシアを統治することとなる。その大方針として、「島民の福祉の増進」が掲げられた。
    もちろん、当時のこの種の統治なので、一種の同化政策が進められたのは事実で、現在の視点から見れば問題もあるだろう。
    ただ、ドイツ時代と比べると島民の受け止め方ははるかに好意的だった。ドイツは2千もの島々が広がる中に、
    25人ほどの役人を配置しただけだったが、日本は1922年に「南洋庁」を設置すると、職員だけでも603人を配属した。
    先に証言を紹介したカズエさんはこう語っている。

    「ドイツの占領時代に来たドイツ人はたった1人ね。軍人だと思うわ。私たちを見張りに来てたのよ。日本になったらみんなここに生活に来たでしょ。
    それで日本時代が本当にすばらしい時代になったの。それがドイツと日本の違いなのよ」

    ※続く


    【【歴史】「大日本帝国時代は本当にいい時代だった?」】の続きを読む



    (出典 www.nagazine.jp)



    1 樽悶 ★ :2018/08/15(水) 16:47:28.14

    ※総踊りスレ

    (出典 amd.c.yimg.jp)


     「怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。中野等・九州大学教授はこう言い切る。中野教授は「石田三成伝」(吉川弘文館)で同時代の一次史料を徹底的に分析し、「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出した。三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていない。その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなものだったという。

    反転攻勢読み切れず兵力分散

     「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえる。最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていた。約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていた。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領に転落していたのを気付かなかったようだ。

     その三成はなぜ敗れたのか、3つの戦略ミスを追ってみた。

     中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きい」と指摘する。それが兵力の分散を招いた。同教授は三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみる。西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていった。毛利軍は四国、中国地方へも出兵している。その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になった。

    得意の情報戦で大きく後れ

     「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師はその戦略ミスが現実化したのが岐阜城の失陥とみる。岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていた。岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐阜城も約半日で陥落してしまう。堀越講師は「岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていた」としている。堀越氏は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残る」という。

     それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったという。実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもった。同城は9月15日に陥落するが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。

     堀越氏は「情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたという。岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたようだ。「東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活用したのは家康だった。大阪城にも徳川シンパは残っていたという。

     本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越氏は「三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じた」とみる。油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしている。「秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙をついた」(堀越氏)。中野教授も「豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家康は、秀吉死去前後からシンパを形成するための多数派工作を行っていた。中野教授は「黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかった。

    三成は西軍のリーダーではなかった

     最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。

    (続きはソース)

    8/13(月) 13:40配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180813-00010001-nkbizgate-bus_all


    【【歴史】「関ケ原」石田三成、西軍敗北した3つの理由】の続きを読む

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